旧手賀教会堂に関して

「千葉県指定の文化財・旧手賀教会堂について」

~現存する日本で唯一の藁葺民家転用教会堂~

岐阜女子大学南アジア研究センター客員教授

椎名 潤(柏地区保護司会保護司)

  全世界に14億人の信徒を持つローマ・カトリック教会は令和7年5月8日、米国生まれのロバート・プレボスト枢機卿を第267代教皇に選出した。教皇名はレオ14世を名乗る。カトリックの一大イベントに前後して、筆者は大型連休を利用して、原胤明墓所(※1)近くの現在信徒数10家族というミニ教会=旧手賀教会堂(※2)を訪ねた。以下は、柏市教育委員会文化課作成のパンフレットや「沼南町史研究」第6号などを参考に、柏市の手賀地区にひっそりと佇む旧手賀教会堂、正式名は手賀ハリストス正教会を紹介する。

  手賀沼の干拓地を見下ろす高台に建つ旧手賀教会堂の歴史は、100年以上も遡る。設立は明治12年。現存する教会堂(建物)は明治14年、近隣の藁葺屋根の民家を移築・転用したもので、藁葺民家の教会堂としては日本で唯一であり、また首都圏では最古の建物で、県の文化財に指定されている。では、なぜ純農村の手賀の地に、キリスト教がいち早く布教されたのだろうか。当時の手賀村は人口3,522人、戸数569戸に対して、馬340疋、船370艘といった具合。この地に教会が設立されたのが、日本でキリスト教が解禁された間もない頃で、手賀沼の干拓で多くの水田が開発され、経済的にも恵まれた農民が多かったことや、利根川と手賀沼を利用した水運の便利さから、東京の新しい文化がいち早く流入してきたことなどが挙げられる。

 明治25年には、東京・ニコライ堂によってその名が知られているニコライ大司教が手賀地区を訪れ、熱心に布教したことが「宣教師ニコライ下総巡回日記」に記されている。それによると、当時の手賀教会の信徒数は126人で、地元の手賀や近郷の布瀬(ふぜ)、木下(きおろし)、染井、片山などに点在していた。うち12人が死亡、18人が他所に移り、15人が信仰に冷淡になっており、現員は81人。そのうち土曜礼拝に集まるのは20人を越えないとしている。また、1戸建ての教会堂は、信徒たちが当時200円近くの資金を出し合い、出来合いの民家を55円で買い取り、それをミサイル岩立という信徒が土地を提供して移築したとも記されている。ニコライの巡回日記には、いろいろな信徒が登場するが、一様に「ここの信徒はみな裕福だ。みな農民で立派な家を持ち、裕福な暮らしのしるしがいろいろと揃っている」とし、代々名主役を務めるシモン=湯浅長左衛門、後に手賀村長を歴任したニコライ=園部岩次郎、同じく代々名主を務めた鷲野谷村のダイトロ=染谷大太郎などが登場する。

 教会堂の外観は農家そのままで、内部は土間の玄関や8畳の啓蒙所、6畳の聖堂前所、4畳の祭具室、そして聖堂(至聖所)などから成り、聖所の外壁は洋風の半円アーチ窓に十字桟があしらわれ、唯一の教会らしさを表わしている。旧沼南町時代の昭和50年と令和2年の2回、保存修理工事を行っており、保存状態は良好で、4人のボランティアが交代で、毎日、午前10時から午後4時まで、案内と解説にあたっている(月曜日は休館)。聖堂内の「イコン(聖画)」は、日本初の女流イコン画家・山下りんの筆になるもので、現在は旧教会堂から500mほど離れたところに、昭和49年に新築・移転した新教会堂に格護されている。新教会堂は現代風の建物で、旧手賀東小学校の跡地(現在は「手賀狸穴公園」となっている)の入り口にあり、すぐ近くに代々、手賀ハリストス正教会を守ってきた信者家族が住んでいる。その一人とお話をすることができたが、残念なことに現在の信徒数は10家族ほど。その方の祖父が現在の新教会の建物を建てたそうで、「大変名誉なこと」と自慢しておられ、その伝統を脈々と守り続けている姿が印象的だった。

※1 原胤明は、東京で初めて更生保護事業を開始した社会事業家であり、日本の児童虐待防止活動の祖。墓所は旧手賀教会堂から徒歩20分。

※2 旧手賀教会堂(柏市手賀666-2)は、柏駅東口より東武バの「布瀬」行きで「手賀」下車。徒歩400m。入館料は無料。

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